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北勢線 90年の軌跡                       椙山 満


 我国では日露戦争戦勝後の交通政策として、1906(明治39)年の幹線私鉄の国有化(関西鉄道→関西本線もその一つ)が行われた。これに対応して1910(明治43)年民間資本の投資によって法的にも資金面でも簡易軽便な地方鉄道を育成・保護しようとする軽便鉄道法が制定された。
 同法によれば、事業主は従来の地方鉄道のような制約が緩和され、簡素な会社組織でよく、鉄道の施設(線路,軌間,勾配,停車場,車両等)もずっと簡易なものでよいとされ、必要ならば道路上に敷設しても許可される。つまり、建設費や運営費が極端に安くてすむ。おまけに翌年に公布された軽便鉄道補助法によって、ある一定の収益水準に達しない軽便鉄道に対しては、国有鉄道が補助金を与えてくれるというものであった。減益の保証までしてくれるというこの法律の裏側には、ある町の国鉄駅から直角に(並行しないで)農山村の終点に達すること、つまり奥地の開発と国鉄線の栄養血管でなければならないとし、将来巨大民間資本に寄るライバル線のできるのを防止する意味もあった。
 好条件は大当たりして、全国津々浦々から軽便鉄道の出願が雨後の筍の如く鉄道院に殺到した。
 三重県下でそのトップを切ったのが四日市鉄道(現近鉄湯ノ山線の前身)と三重軌道(現近鉄内部・八王子線の前身)、続いて北勢軽便鉄道(現三岐北勢線の前身)の3社で、その後全国に130社ほど生まれた軽便鉄道のうち3社とも90才の天寿を全うする事ができたことは慶賀にたえないことである。


 三重県の北部で3番目にスタートした軽便鉄道は、桑名市の財界人たちが発起人となって、桑名の大山田村と阿下喜とを結ぶ北勢軽便鉄道であった。阿下喜は三重県最北端の町で鈴鹿山脈と養老山脈に囲まれ,岐阜県から濃勢街道によっていろいろな物産が交流してくる昔からの異色の町。田舎町であるのに古くから旅館業が多くタクシーやガソリン自動車が走り回る町であったし、また、ここを避暑地として第二の湯の山を考える発起人もいた。阿下喜どまりとなる物産の賑わいを桑名まで運び込む鉄道。途中ほとんどが員弁川に沿う穀倉地帯。川幅の広い星川あたりには豊富な砂利が採れる。これを副業にすることができる。
 そのころの桑名は幕政時代の城下町から抜け出したばかりで、金属工業である伝統の鋳物と琺瑯の特産品のほか、ボールベアリングの先端技術の町を目指していた。
 北勢軽便鉄道が改称した北勢鉄道が第1期開通したのは1914(大正3)年4月で、大山田から楚原まで14.5q、先に三重軌道の工事で名を挙げた神田喜平が技術長となって活躍した。全線が平坦線でO&Kの6トン20馬力機関車3両(No.1,2,3)で開業した。
 つづいて翌年の1915(大正4)年、西桑名から市の中心部桑名町まで0.7qを開通させた。桑名町には桑名城をめぐるお堀の分流が来ており、小型の舟ならここから川口港を経て海上で貨物が運送できる。1916(大正5)年には楚原から阿下喜の一つ手前の六石まで開通させる準備をはじめる。第一次世界大戦の真っ最中でもあって、機関車No.4は雨宮鉄工所の20馬力、7トンB形が増備され、1916年8月には楚原-六石4.6qが無事開通できた。その先阿下喜までは地形が悪いのでなかなか開通しなかった。その区間がいかに難航したのかは、その後増備したNo.5,6,7の3両の蒸気機関車を30馬力にパワーアップしていることと,同年さらに8トン40馬力を3両(No.8,9,10)、麻生田の勾配と六石付近の悪路の工事に投入している。このNo.8,9,10は伊勢鉄道がこれと同じころ、津-四日市間の開通に使用するため購入したものと同じもので、軽便の機関車としては大型機であった。やがて北勢鉄道が阿下喜に達すると同時に電化も完了してこの3両の蔭役者たちは星川の砂利採り線にまわされ、そこで重いバラストを満載したボギーのゴンドラカーを牽かされて、西桑名の砂利留置場まで忙しく往復していた。しかし、第二次世界大戦がはじまる前の1934(昭和9)年12月ごろ、当時の日本海軍が統治するボルネオ島の森林鉄道へ3両とも売られていった。
 いよいよ1931(昭和6)年7月、阿下喜に乗り入れることになった北勢鉄道は、開通と同時に電化を終えていたので、最初から電車(No.50〜55)がスマートな顔でお目見えした。また貨物用の黒塗りBB形凸形電気機関車2両(デ20,21)も麻生田や六石の坂を越えてやって来た。しかしこの2両の電気機関車はその後は主に星川に移って西桑名までの間を砂利を満載したゴンドラを長々と牽く姿が見られたものである。

 最後にこの線には特筆すべき電車がいる。1959(昭和34)年4月、三重交通時代の湯の山線に、御在所ロープウェイが開業して観光客がどっと集まってきた。当時の三重交通社長の安保正敏は三重県の北部では湯の山ロープウェイ、南では国立公園に指定されたばかりの伊勢志摩に高性能電車を登場させて宣伝に努めた。前者は湯の山線に現れた4400形連接電車で、3車体4台車のクリームと緑に塗分けられた762o軌間用では全国トップをきった防振台車、間接自動制御方式、電空電磁ブレーキ併用、垂直カルダンドライブといった高性能車。後者は志摩腺に入った5401でこれは3’-6”用で4400を上回る高性能車であった。いずれもコンピューター時代の一つ前のプレハイテクカーとして成功ではあった。
 だが、とくに2’-6”の連接車では構造が複雑すぎて使いにくいとの理由から、北勢線に移り、1971(昭和46)年にトレーラー化されて朝夕の通勤・通学ラッシュに他の電動車で引張った。2’-6”の世界でいろいろ特色のあったこの北勢電鉄も、1944(昭和19)の統合で三重交通北勢線、1964(昭和39)年三重電気鉄道の北勢線、1965(昭和40)年近畿日本鉄道北勢線、2003(平成15)年4月三岐鉄道北勢線となって、90年間よく働きつづけてきたことは賞賛に値することと言わねばならない。
                    (郷土史家・医師)


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